6. むすびに
生徒のICT道具の活用能力の高さは驚くものがある。
プレゼンテーションソフトのスライドを作る能力など
私をはるかに凌駕するものがある。
本校理数科ではいろいろな外部施設を訪問する。
生徒は私に,トイレどこにありますか?
と聞くことがある。
私も初めて来た施設だからわからないと答えると,
頼りにならないひとだと思われる。
ここから先の(初出の方法ではない)計算は残しておきますというと,
最後までやってくれない不親切なひとだと思われる。
課題を出すと,すぐネットを調べる。
少し考えればすむことをネットにたずねる。
いずれも本校でのできごとだが,
そろそろ終わりの時期が来たようだ。
平成25年の大学入試センター試験の
問題から,
強い主張を感じた。
公式を知っていますか? 正しく計算できますか?
という従来の設問に加えて,
今日までどのように数学に向き合ってきましたか?
ということを問うているような気がしてならない。
あれは出なかったのにこれが出た,
公式の定着をしっかりやるという勉強をしてきた生徒には酷な出題,
という評価ではなく,
普段の授業でしっかりと高校生らしく,
数学を教師とともに構成していくこと,
現象(例えば,3 : 4 : 5 の三角形)の数理を探究すること,
をしていかなければならないと感じた。
ネットの世界には難しいこともしっかりかいてある。
大人の知らないこともかいてある。
すでにある高度な道具を上手に使うことにも長けている。
でも,その仕組みは知らない。
○○定理は知っていても,証明は知らない。
もっとも,これは本県だけの問題ではなく
(他県より顕著だとはおもうが),
全国的な,いや世界的な問題
(平成25年1月26日
埼玉大学名誉教授 町田彰一郎先生の講演)のようである。
情報化社会の問題点のひとつなのかもしれない。
課題学習や数学的活動は,やってみることで,現象を定式化したり,
解決の方向性を見出したりする経験が出発点であろう。
最後に「伝説の算数教科書<緑表紙>」から再び引用する。
小倉金之助は「完成された数学を土台として教育を施すか,
または経験から科学的精神に従って抽象し法則化することを土台として教育を施すか。
ここのところが今日の数学教育と私論との根本的相違の点であります。」といい…(大正13年)
了